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「人の心を操る」の記事一覧

人の心を操る

こんにちは

岡田です。

かなり昔の話ですが
僕が営業の現場で

売りまくっていた現役時代に

とあることを言われたのを

思い出しました。

「売れてる営業の人って

 何かこう知らないうちに

 人の心を操って
 誘導しているようで怖い。

 自分の感情や気持ちを変えられて

 洗脳されちゃうみたいな。

 そういうのってちょっと・・・」

と、こんな内容のことを

言われた記憶があります。

今でもたまにそれに近い事を

言われたりします。

先入観からなのか

営業マンって

人の思考を操ろうとしている

そこまで言わないまでも

絶対どこか意図するところに

上手に話を持っていっている・・・

そんな内容を若干、

悪意を持って言われました。

人を悪魔のような扱いをしたので

いつまでも記憶に残っています。

最初は

「そんなことないよ。」

と否定したい気持ちもあったのですが・・・

正直に言いました。

「僕は人を僕の意図する方向へ

 誘導しようとしてるよ。」

と。

「ひどーい!」

「こわーい!」

「ダメだよ〜そんなの〜」

「そこまでして売りたいの?」

と言われました。

そうですけど、

それのどこが「ひどい」のか

理由を知りたいです。

買いたくない人に買ってもらえる様に

興味がない人に興味を持ってもらえる様に

言葉たくみに話すことが

そんなにいけないことなのでしょうか?

それをするから営業の役目を

果たしてる気がするんですが。

僕が思うに・・・

既に買いたいと思ってる人に

買うように促したり

既に興味がある人に

興味を持つようにする、

そんな営業マンこそ

余計なお世話じゃないですか?

しつこいし、くどいだけです。

お客さんからしてみたら

「いや、だから買うって言ってるんですけど・・・」

と。

自動販売機で気に入ったジュースを

買おうと思っているところに

突然営業マンがやってきて

「このジュース良いですよ!」

と力説されてるようなものです。

お客さんにしてみたら

「は、はぁ・・・。」

「あ、そうですか、どうも。」

と言って買うかもしれません。

かなり稀なケースですが、

「じゃぁ止めた!」

となるかもしれません。

いずれにしても

この会話は誰に何のメリットが

あるのでしょう?

買いたいと思っていない人に

買いたいと思ってもらえるようにするのが

営業マンの仕事であり

営業マンとしての存在意義が

あると思うのです。

「買ってもらいたいがために

 言葉たくみに営業かけて

 相手の気持ちを変えさせるなんて
 人としてどうかと思う!」

そういう意見の人が言いたいことは

おそらく

「自分で判断するから放っておいて!」

ということなのでしょう。

もちろんその通りですし

僕もそうしたいです。

僕が言いたいのは営業の仕事とは

その最終的に自分で判断する材料を
伝えることあり

できればその判断は

僕が意図するところに

落ち着いてくれたら嬉しい

という自然な行為なのです。

それがダメという人は

もしビジネスをするとしたら

商品に関する何の説明文も魅力も書かずに

値段だけ書いて並べておけば売れる

と言ってるようなものです。

店頭にただ商品を並べておけば

買いたい人が勝手に

買って行くんだから

望んでもいないのに話しかけるな!

と言っているのです。


しかしそれって実は

会話自体も否定している気がするのです。

もし人類が全員同じ価値観で

同じ意見だったら

会話のコミュニケーションが

なくなると思うのです。

たとえば映画を観て

面白いね、楽しいね、感動するね

というコミュニケーションは

「同じ意見」の確認作業ですよね。

しかしこの共感という
コミュニケーションは

人は全てが同じ価値観や意見や思想を

持っていないことが
前提で起きるのです。

人は決して同じではない。

それが前提にあるからこそ

同じ映画をみて
同じ感情に襲われた時に

「そうだよね!」

というコミュニケーションに

「気持ち良さ」
が芽生えるのです。

全人類の価値観、意見、思想が
寸分の違いもなければ
「同じ感情を持って嬉しい!」

こと自体が起きないのです。

わかります?

自分と全く同じ感情を持った

コピーロボットしかこの世に

存在しなかったとしたら

そのロボット相手に

「おーっ!気が合うね!」

というコミュニケーションは

成り立たないということです。

人は一人として同じではない。

違うからこそ

自分の意見や感情と同じになることを

心のどこかで望んでいる。

その気持ちは会話の多くに

起きているのです。

宗教の教えも

「こういう思想を持ちませんか?」

という表現ですが、それは

人は違う思想を持っていることが

前提なんです。

宗教のような大きな話ではなく

日常的なことでも言えます。

パスタを食べたいと言っている人に

今日はカツ丼を食べたいと

思ってる人が一緒にいるとします。

その後、2人の間で

どのような会話が交されたとしても

それは

「私の意見を認めて欲しい。

 できれば私の意見に考えを変えて

 私が欲する食べ物を

 私と一緒に食べて欲しい。」

という願いが根本にあるのです。

お互いの主張が会話になっているのです。

パスタを食べたい人は

パスタを食べたい理由を言うでしょう。

それはカツ丼を食べたい人に

パスタを一緒に食べてもらいたい

つまり意見を変えてもらいたいからです。

逆もしかりです。

人は誰一人として同じではない。

だから人生のほとんどが

その違った意見を

「変えて欲しい」

目的のために会話をするのです。

たまたま同じ意見の時は

共感するために会話があるのです。

主張が激しければその会話は

論争と呼ぶかもしれません。

もし別れてバラバラのお店に

行ったとしたら

それは論争を回避して

意見をお互い変えなかっただけです。

それを営業活動に置き換えたら

買ってもらえなかった

というだけです。

「今、パスタを食べたい」

その理由やメリットを伝えるのは

相手に意見を変えてもらいたいから。

どんな時も最初から意見を言わずに

「それぞれ違う店に行けばいい」

そんな意見の持ち主たちに
会話の必要性がありません。

たとえ最初からそれぞれ

違う店に行く事自体が

同じ考えであったとして

その後に

「また後でね!」

という次の会話は

「また後で会おうね!」

というその人の望みであって

一方の人は会いたくないのかもしれません。

つまり会話とはどこまでも

違うかもしれない意見を

同じ意見にして欲しい

確認作業なのです。

自分が望むことを相手に求める・・・

会話とはその要素が

どこかに潜んでいて

それがダメとか悪いとか

ましてや「ひどい」とか

言われることの

意味がよくわからないです。

違う意見を同じ意見に変えようと試みる。

買いたくない(という意見の)人を

買いたいよう(売り手の思う意見)にする。

価値観が激しく違えば

論争になることもあるし

意見を変えることで
賛同することもあるでしょう。

最初から同じ価値観のときは

認め合って喜び合うでしょう。

最終的に意見が違うままなら

買わないでお互いの道をそれぞれ

歩くだけのことです。

会話の後にその結果になった。

ただそれだけのことです。

それが「ダメ」とか「ひどい」と言うなら

会話やコミュニケーションを

否定されてるようなものですし、

もっと言ったら

その「ダメ」とか

「ひどい」という意見は

僕の気持ちを変えさせようとしている

行為なのでは?

と思ったりもするのです。

営業マンがお客さんに

気持ちを変えてもらうように

する会話は人としてダメで

その人が営業マンに

そんなことはしないように

気持ちを変えてもらうように

する会話は人として正しい

論理が破綻していると

思うのは僕だけでしょうか?

人はそれぞれ違うからこそ
会話をするし

同じ意見を求めるのです。

違う意見の持ち主を脅したり

ロープで縛って無理強いしたり

嫌がっているのに会話を続けるのは

たしかに「ひどい」と思いますが、

違う意見を同じ意見にしようとする

それは日常よくある会話に過ぎないと

思います。

それを

「人の心を操る」

という表現であるなら

会話とはそういうものなのでしょう。

僕は生きてる限り

会話を続けるつもりなので

それがひどいというのであれば

僕はひどい人でかまわないです。

相手の意見を自分と同じように
変えてもらいたいと試みる行為を

「ダメ」とか「ひどい」とか言う人に

冷静さを取り戻して考えてみて欲しいです。

「ダメだからその考え方はやめなよ!」

と自分の価値観を主張する行為そのものは

相手に意見を変えて欲しいからなのでは?

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