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儲ける脳のつくり方

オススメの読書法

こんにちは

岡田です。

最近、読書量が完全に減りました。

30代の時はとにかく読みまくりました。

多い時で年間200冊くらい。

僕は速読が出来ないので

(色々試しましたが断念)

普通に読んで年間200冊は

まぁ多い方だと思います。

ちなみにメンタリストのDaigoさんは

1日10冊〜20冊くらい読むそうです。

1日平均15冊だとしても

年間5000冊くらい読むことに なりますね。

そこまで突き抜けると 世界は変わる気がします。

きっと読書が好きなんでしょうね。

もちろん僕も今でも 読書は好きな方です。

ただ読書が好きというよりも

厳密に言えば知らなかったことを

新たに知る喜びを感じることが

好きなんだと思います。

話は変わりますが

お陰さまで最近は

ブログを読んでいただいた方から

感想をいただけるようになりました。

「なるほど〜」

「わかりやすい。」

「腑に落ちました。」

などなど嬉しい言葉が並びます。

なぜこれらの言葉が嬉しいのか。

それは僕が一般的に難しい

と言われている内容や

誰も説明したがらない内容を

僕らしい論調で

なるべく読者の方に理解してもらえる様に

書くことを 心がけているからです。

この心がけている事に対して

読者の方が直球でその部分を

褒めてくれるから嬉しいのです。

「心がけています。」

と言うだけなら簡単ですが

では具体的には

何をしているのでしょうか?

僕の場合は 自分で書いたものを

何度も読み直します。

読み直してわかりづらかったり

もしかしたらここの部分で

誤解を招くかもしれないとか

色々考えて何度も推敲します。

厳密に数えている訳では

ありませんが、

恐らく20回以上は

読み直しては修正して

を繰り返しているでしょう。

なので1記事を完成させるのに

何時間もかかります。

何も推敲しないて書けば

10分程度で書けます。

何も推敲しないで

10分で書いた記事と

何時間も修正を重ねて

完成させた記事と

どれくらいの差があるのか?

と言われたら もしかしたら

殆ど差らしい差は

見当たらないかもしれません。

ちょっと悲しいですが・・・。

それでも僕は

丁寧に記事を書くようにしました。

その頃からでしょうか?

僕は本を読む量が 減りました。

ただし1冊を読むのに

費やす時間がとても増えました。

めちゃくちゃ丁寧に

読むようになりました。

著者が恐らく何ヶ月もかけて

仕上げた1冊の本を

2時間程度で読み飛ばしたく

ないからです。

年間何百冊も読んでいたことは

それはそれで良かったです。

ただブログの記事を

丁寧に書くようになり

本を丁寧に読むようになると

世の中も丁寧に

観察できるようになりました。

これが本を読む量を少なくして

丁寧に読むようにした

最大のメリットです。

世の中を丁寧に観察 できるようになると

問題が問題でなかったり

表面的な問題に

右往左往しなくなります。

軽々しい発言で

失言をする回数も

かなり減りました。

あと、これはあまり

言わなくてもいいことなのですが

他人の嘘がすぐにわかります。

丁寧に観察すれば

つじつまの合わないこと ばかりが

実は世の中なのです。

そこに疑いが発生し

それに対して質問をして

つじつまが合えば

自分の誤解で済みますし、

逆に何を質問しても

いつまでもつじつまが

合わないことを繰り返されると

どんどん真実から遠ざかるのが

わかります。

他人の嘘を暴く事が

本来の目的ではないので

他人の嘘などは

かなりどうでもいい話ですが

世の中の真実を

見極めるようになりたければ

その訓練の一つとして

読書をする際に

丁寧に一文字ずつ

噛みしめるように読むと

いいかもしれません。

僕はオススメします。

未来を作る教育現場

こんにちは

岡田です。

11月24日に東京都の教育委員会が

学校の水泳の授業で飛び込みを禁止する

と決定したそうです。

このニュースを見て

「危ないからこそ

 その危険性をわかる人が

 教えた方がいいのでは?」

「何でも危ないからダメ

 という理由なら

 はさみもダメ、カッターもダメ

 野球もダメと料理もダメ

 になりそう。」

といった、どちらかというと

残念に思う意見がネット上では 多かったです。

「飛び込みを禁止した方がいいのでは?」

という意見が出ること自体は

悪い事ではないと思いますが

まさかそれが決定事項として

ニュースで知らされる事に なるとは

思いもよりませんでした。

責任逃れの成れの果ては

こういう決断がまかりとおるんだな

と残念に思ったニュースでした。

教育委員会には誰も

それを本気で止める人が

いなかったのでしょうか?

「責任逃れ」や「保身」「他人事」 という

残念な概念が 僕の頭の中で飛び交いました。

子供達の教育を担っている現場、

しかも東京という日本の中心で

それが行われていると思うと

日本の将来は不安で仕方ありません。

しかしふと、我に返りました。

教育の現場というのは

何も子供に限ったことではない

と。

大人はどうなんだ?

と。

後輩や部下から 失敗をさせるチャンスを

奪っていないか?

失敗という貴重な経験は

その失敗を許す周囲や環境が

あるからこそ それは貴重な経験であり

もし許されないのであれば

それは確かに禁止するより

他にありません。

なじみのある言葉で言えば

リスクを体験させることは

そばにいる教育者も

「めんどうくさい」

ことを供にしなければ ならないのです。

さらに言えば 失敗をした場合に

教育者も場合によっては

責任を取るという

さらに面倒なことを

他人のためにしなければ ならないことも

隣合わせなのです。

そう考えると

「そりゃ禁止にした方が楽でいい!」

と落ち着くことも 自然の成り行きなのでしょう。

しかし

それは近視眼的に見れば

とても合理的で効率的 なのかもしれませんが

長い目で見たら明らかに 障害に弱く、

粘ったり頑張ったりできず、創造力のない、

そして他人を思いやる 余裕のない人間が

できあがるでしょう。

リスクがあるものは遠ざけて

臭いものには蓋をする。

教育の現場でそれが 行われる様になったら

私たちの未来はどこまでも 絶望的です。

せめて大人の世界では

リスクを負い 責任と隣り合わせで

緊張しながら 生きていくことによって

強くなり、優しい人間に なっていけると思うのです。

大人達がそんな強さ(優しさ)を

手放さなければ 絶望からは逃れられると

思うのです。

リスクを恐れず責任を取れる大人でいることが
未来に希望を持てる世界を作ることに

繋がると信じています。

とにかく読んで欲しい

こんにちは
岡田です。
今年はアニメ映画の当たり年と
言われているそうです。
日本のアニメ映画と言えば、
宮崎駿監督率いるジブリ作品が
まず思い浮かぶと思います。
しかし今年は違います。
今年の大ヒット作は
何と言っても新海誠監督の
「君の名は。」
ですよね。
ご覧になられた方は
好き嫌いは別にして
ヒットした要素は少なからず
感じとれたのではないでしょうか?
そして今、
秘かに?ヒットしている・・・
いや、すでに大々的に?
ヒットしているアニメ映画
「この世界の片隅に」
を観て参りました。
便利な世の中になったもので
最近は映画の前評判を
プロの評論家だけでなく
素人の感想なども
いろんなサイトやSNSなどで
チェックできます。
その恩恵にあずかり、
「この世界の片隅に」
の感想や評判も
事前に調べてみました。
すると次のような感想が
異様に多いことに気づきました。
「とにかく観て欲しい!」
もう、どこのサイトも
このフレーズだらけです。
「とにかく観て欲しい!」
おいおい。
とにかく観て欲しい、ってそれだけ?
ずいぶん粗い感想だな。
食べログで言ったら
「すげーうめー」
と大して変わらないぞ。
その程度の感想なら
むしろ書かない方がいいのに!
と、そんな充実していない
感想をチェックしつつ
多少がっかりしながらも
実際、観て参りました。
さて。
僕の感想は・・・
「とにかく観て欲しい!」
です。
いや、あの、
ウケ狙いとかではなく
本気でそう思います。
この映画が
構想何年か知りませんし
製作費がいくらか知りませんし
監督が誰か知りませんし
興行収入がいくらか知らないですし
全米が泣いたかどうか知りませんが
とにかく観て欲しい。
何をどう説明したらいいのか
よくわからない新感覚の映画です。
当然、話の内容に好き嫌いは
あると思いますが
経験としては新しい経験が
できると思います。
どこから説明したらいいのか
まったくわからないので
思いつくまま書きますね。
まず、この映画は
ストーリーだけで
感動させていません。
あ、一応戦時中の話なので
悲しい話です。
大変な話です。
ひどい話です。
それは普通の戦争映画と
変わらないです。
まぁそれだけでも十分
泣けるのかもしれませんが
それだけならよくある映画です。
映画館で泣いてる人が
何人もいましたが
恐らくストーリーだけで
泣いてる人はそんなに
いないんじゃないかと思います。
最初に紹介しました
「君の名は。」は
映像がとてもシャープで綺麗でした。
その映像の美しさも
「君の名は。」の見所の一つです。
一方で「この世界の片隅に」
の映像は、のほほ〜んといった
タッチで描かれています。
絵本の中の世界観と言えば
いいのでしょうか?
そんな感じの映像です。
しかしなぜか、
シャープで綺麗に描かれている
「君の名は。」よりも
実写に近い感じがするのです。

3DやCGを駆使しているわけでは
ありません(たぶん)。
それなのによりリアルさを
感じてしまうのです。
映像の中の世界を観ている人が
「想像する」のではなく
「思い出す」感覚なんです。
わかりますか?

わからないですよね^^;
「君の名は。」の方の映像は
「こんな素敵な街に住んでみたいなぁ」
とか
「こういう森ってありそう」
とかそういう感覚であるのに対し
「この世界の片隅に」の映像は
「確かにそこにあった」
「確かにそこにいた」
「確かにそれやった」
という感覚です。
映画の中の主人公が
「いた」し「やった」のですが
それがなぜか
僕が「いた」し
僕が「やった」
ような感覚が残るのです。
どうやらこの映画は
建物、街並み、衣装、しぐさ、言葉
などなど
それらに関するありとあらゆる
文献を大量に取り寄せて
時代背景を調べまくって
映像に忠実に反映させたようなのです。
この尋常ではない努力の成果によって
絵本のようなタッチでも
観ている人が
よりリアルに近い感覚に
襲われるのでしょう。
さらに
声優さんの仕事も超一流でした。
声を単にアテレコしているだけでなく
演技のパワーのようなものを
感じました。
特に主人公の声優さんの演技は
鳥肌ものです。
このように書くと
さぞかしものすごい
映像を期待されるかも
しれないのですが
ある一場面も切り取って
それを観ただけでは
恐らく今までのアニメ映画と
そんなに変わらないでしょう。
効果音が頻繁に使われたり
無理矢理感動させようとして
音楽が大音量で流れたり
3Dがどうとか
CGがどうとか
特殊な技法でびっくりさせるような
映像があるわけでもありません。
一つ一つの場面を
一つ一つの細部にまでこだわった
その連続が作品となり
その作品を観終わった後に
「なんかすげー」
という感情が溢れ出てくるのですが
この「すげー」の後に
言葉が続かないのです。
すげー感動したのか
すげー悲しかったのか
すげー面白かったのか
すげー笑えたのか
どれもそうだし
どれもそれだけじゃない。
特にラストシーンでは
いろんな感情が
一気に襲いかかるので
面白いとか感動するとか
楽しいとか悲しいとか
そういう単語では
とても語れない不思議な映画でした。
神は細部に宿る。
もしこの映画の製作過程を
巻き戻して観る事ができるなら
恐らくこんな言葉が
当て嵌まると思います。
どうしてそこまでこだわるの?
そのこだわりとは
決して技術的なことだけではなく
決して妥協を許さない
スタッフ全員の職人としての想い、
そんな職人の一つ一つの
仕事の連続や集合体が
この作品であり、
細部に至るまでの完成度の高さを
全身で感じ取れる映画でした。
それを感じた瞬間、僕は
たとえばストーリーとして
悲しかったとか感動したとか
映像としてすごかったとか
音楽が良かったとか
声優さんの演技が良かったとか
そういうどこか他人事というか
俯瞰した感想はどこかへ
飛んで行ってしまい、
今、観た映像は
全体像として何となく
自分が体験したことを
振り返ったような映像であり
自分のこととして
どう思って
どう感じて
これからどう生きるのか?
そんな感覚に襲われたのです。

今までの映画のように
主人公に感情移入するのとは
違います。

あくまで自分が体験したことが
映画になった、
そんな不思議な感覚です。
だからラストシーンでは
映像的に残酷で
悲しい場面があるのですが、
いつもなら主人公に感情移入して
泣いてしまうところを
この映画の場合は僕は
「ここは泣く時じゃない!
 目を開いて観なきゃ!」
と感じたので
周りが泣いている中で
ひとり目をギラつかせていました。
そういう意味で
観ている人がそれぞれ
主人公になりうる映画なので
感想をどう表現していいのか
わからないのだと思います。
余計なことは言わずに
「とにかく観て欲しい!」
という感想は
的を射た感想なのかもしれません。
そしてこの映画の監督にかかわらず
映画監督というのは
もしかしたら誰もが
この映画のようなものを
目指して作ってきたのでは
ないでしょうか?
監督がこういう感動を与えたい、
の「こういう」という
着地点など設定せずに
映画を観ている人が
それぞれ自分なりの
感動を作る。

多くの映画監督は
それを目指していたにもかかわらず
なかなかそれを成し得なかった、
そんな気もするのです。
いや、映画監督だけでなく
もしかしたら
アートと呼ばれるものは
おしなべてそうなのでは?
だからどんなに良い作品を作っても
納得がいかず、
自分のエゴと戦い
自分の力のなさに嘆き
次の作品でまたチャレンジする。
そう考えると僕らも
仕事をしていて
商品やサービスが
一つの作品だとしたら
この領域を目指す価値が
あるのではないでしょうか?
神は細部に宿る・・・
その一方で
この世に完璧なものなど
一つもありません。
しかし神が宿るとしたら
それは確かに細部なのかも
しれません。
僕もセミナーや講演
このブログを含めて
ビジネスコンテンツ
という作品を提供する者として
この映画から受けた衝撃は
計り知れないものでした。
自分の商品を買ってくれた
お客さんたちが
まだ買ってない人たちに
「とにかく買って欲しい!」
そんな風に言われる様になるために
この映画から学ぶことは
たくさんありました。
お時間があればぜひ!
ではなく、
お時間をどうにか作って
「とにかく観て欲しい!」
映画でした。
「この世界の片隅に」公式サイト

http://konosekai.jp/

営業行為が嫌いな人へ

こんにちは
岡田です。
日本という国はご存知の様に
モノやサービスが溢れている国です。
つまりほとんどの商品には
似たような商品がたくさんある
ということです。
似たような商品AとBが
並んで販売されているなんてことは
日常よくあることです。
さてこの似たような商品AとBを前に
お客さんが取る行動は
大きく分けて以下の4つです。
①.Aを買う
②.Bを買う
③.AもBも買わない
④.AもBも買う
どうでしょう?
この4つ以外に何かありますか?
ちなみにAもBも買わずにCを買う
という考えは③として考えます。

AもBもCも買う場合は④として
考えるのは言わずもがなです。
そう考えると
この4つ以外はないのです。
そこで一つ質問です。
お客さんの立場になって
考えてみて下さい。
①〜④の選択肢の中から
何を選びますか?
わからないですよね?
質問が乱暴過ぎますから^^;
しかし日本では多くの人が
その状態なんです。
自分たちの周りには
モノやサービスが溢れていて
どうしたらいいのか
わからない状態なんです。
そこで必要なのは何でしょうか?
買うにしろ買わないにしろ
買う場合には
Aを選べばいいのか
Bを選べばいいのか
もしくは両方選ばずに
Cを選んだらいいのか
いずれにせよ
「情報」がなければ
選択する判断基準すら
作れないのです。
その判断基準となる情報は
誰が発信するのか?
と言えばそれが営業マンなのです。
たとえ営業マンという
専門の職種でなくても
売り手である側の役目なのです。
それが営業活動です。
もし商品の情報を発信しなければ
それはその商品が「ない」
つまりこの世に存在しないのと同じ
ことを意味します。
なぜなら誰にも気づかれないのだから。
その商品についての情報の
ほんのかけら程度ですら
見た事も聞いた事もない
陰も形もない
噂ですら存在しないモノを
知ることができるでしょうか?
比較することができるでしょうか?
ましてや買う事ができるでしょうか?
誰一人として知られていない
その商品は残念ながら
この世に存在しないことと
ほぼ同義ではないでしょうか?
営業行為を嫌う人は
良いモノを作れば
必ず誰かがわかってくれて
買ってくれると頑に
それを信じています。
残念ですが、
それはあり得ません。
なぜならたとえどんなに
良いモノであったとしても
それは買い手にとっては
この世に存在していないのですから。
悲しい事に
「選ばない」
という判断すらも
されないのです。
そしてもう一つ
大切なことを
お伝えします。
何かを買う時に
「これが不幸の始まり」
だと思って買う事はありますか?
モノを買うその多くの場合
人は何かを期待して
ワクワクしながら
買うと思うのです。
これで痛みから開放される!
これであの人を喜ばせる!
これはおいしいに違いない!
次のデートでこの服を着よう!
これでみんなから注目される!
便利な機能で時間短縮できる!
この内容は面白いに違いない!
これでお腹が満たされる!
これで綺麗になれる!
これで格好良くなれる!
これでぐっすり眠れる!

などなど。
恐らく現状よりさらに
「良くなる」
ことを信じて買うと思うのです。
それは幸せになると信じている
と同じ意味合いです。
今より良くなること
今より幸せになることを
求めている人に
その判断基準となる情報を
伝えるのが売り手の役目なのです。
だからお客さんに
買ってもらう時に
逆にお客さんから
お礼を言われたりするのが
売り手としての最大の
喜びになるのです。
買う(もしくは買わない)
という判断基準を
教えてくれてありがとう!
と。
営業行為が
お客さんが幸せになれる手助け
となった瞬間です。
そして
たとえ選ばれなくても
(買ってもらえなくても)
幸せになる判断基準を
伝えているということを
忘れてはいけません。
その時にたまたま自分の商品を
選ばれなかったとしても
幸せになれるお手伝いを
するのが営業行為なのです。
その行為を嫌う人は
お客さんが不幸になればいい
と言わないまでも
お客さんの存在を
無視していることになります。
どうでもいい存在。
当然売れるわけありませんし
誰からも喜ばれることは
ないでしょう。
自らその可能性を
閉ざしているのですから。
つまるところその商品は
買う事によって
不幸になるのが目に見えてると
確信しているとしか
思えないのです。
もしそうだとしたら
確かにその場合おいてのみ
営業行為をしては
いけないと思います。
しかし
もしその商品を買う事によって
幸せになれる人がいるのであれば
僕は営業行為をすることが
多くの人を幸せにできる
可能性を信じて止みません。

会議のあり方

こんにちは
岡田です。
会議がやたらと長くて出たくない!
そう思った経験はありませんか?
僕はあります。
出たくないと思うのは
実は、時間が長いからではなく
会議の内容そのものに意味がない
と毎回毎回思わされるから。
こんな会議意味がない!
現場をわかっちゃいない!
机上の空論でしかない!
バカバカしい!
上司のストレス発散の場!
伝達事項だけならメールでいい!
会議に参加する側の不平不満は
概ねこんな感じだと思います。
逆に会議を招集する側、
上司や上役の意見は
ウチの社員たちは
何を言っても響かない
死んだ目をしてる
覇気がない
アイデアや意見を出さないくせに
陰で文句ばかり
毎回お通夜のような雰囲気
こんな会議ならやるだけムダ
こんな感想をお持ちのようです。
さて、
どうしてこうなるのでしょう?
両者とも会議が最初から
不必要だとは思っていません。
やっていくウチに
今やってるような会議がムダだ!
と思うようになるのです。
そう。
両者とも意見は同じなのに
いつしかギスギスしはじめ、
嫌になるのです。
その原因をお互いがそれぞれ
お互いのせいにしている
そこにも原因があるのです。
部下は上司が怒るから
発言がしにくく
上司は部下に覇気がないから
仕方なく怒る。
こんな感じではないでしょうか?
まさに鶏が先か卵が先か。
もはやこうなってしまっては
そもそもの発端となった原因が
どちらが先であったかを
追求したところで意味はありません。
それよりも今後どうしたら
より実りのある会議になるか
を探った方が良さそうです。
そもそも何の為に
会議はするのでしょう?
突き詰めて行くと
誤解を恐れずに言えば
より売上げを上げる為です。
では売上げというのは
どこで成り立っているのでしょう?
もちろん現場です。
部下の持ち場です。
その部下が現場で
困っていることを
どうにかするために
会議をするのです。
よほどのへそ曲がりでない限り
部下を現場で困らせたいために
会議をする上司はいません。
どうにかしてあげたいのです。
ここで多くの人が目を背けたがる
重要な事実をお伝えします。
上司は部下を助けることはできません。
いや、助けてはいけないのです。
なぜなら、
だったら最初から上司が現場に
いればいいのです。
売上げを上げる為だけなら
実績を作れる上司が
思う存分売り上げればいいのです。
なぜ未熟な部下を現場に行かせて
みすみす売上を下げるかもしれない
ことをさせているのでしょうか?
それはそれをしてまでも
部下を成長させる必要が
あるからです。
つまり未来への投資なのです。
それなのに現場で部下の成長の
可能性を奪う事は
未来への投資が中途半端に
なってしまうのです。
現場で手伝う事はもちろん
会議でも上司は前に
しゃしゃり出ては
いけないのです。
部下が現場で困っている事で
その場で解決できなかったことや
うまくいかなかったことを
会議で考えたり対策を
立てたりするのです。

会議はあくまでも
現場では解決できなかったことを
じっくり現場の仲間同士が
自分たちの力で解決に導く為の
時間と場所なのです。
上司の過去の武勇伝など
どうでもいいのです。
それを参考にするのはいいですが
ほとんど参考になりません。
なぜなら時代はすごいスピードで
変わっているからです。
会議での上司の役目は
ただ一つです。
未熟であるがために
現場で対応しきれなかった部下が
自分たちでどうにか解決策を
見つけ出すために
会議という形で
時間と場所を提供するたけです。
それを見守っていればいいんです。
会議で口を出すから
部下が自分たちで
考える事を放棄するのです。
現場での全てのパターンを
上司が部下に教える事が
可能であれば
そのやり方もありでしょう。
部下は教わった通りにやれば
売上は滞りなく上がります。
しかし現実的には
そんなことできません。
毎回違う新しい困難が
次から次へと襲ってきます。
上司に教わったことが
そのまま使える事など
100回に1回あればいい方です。
であるなら
部下は自分たちで
その場(現場)で考えて
乗り越える訓練が必要なのです。
それなのに上司が
会議で口を出すことによって
その可能性を奪っては
いけないのです。
違う言い方をすれば
上司は会議でいるだけで
いいのです。
アイデアを出す必要も
怒る必要もないのです。
どちらもしてはいけないのです。
ただいるだけ。
見守るだけ。
それでいいんです。
「ウチの上司は会議で
 ただ座ってるだけ!
 アイデアも出さなければ
 参考になる過去の経験も
 教えてくれない。
 現場で困っているのに
 何も教えてくれない!」
部下にそんな風に
言われる様になったら
部下はしっかりし始めます。
あとはその会議は
ひとりでに成長を
始めます。
会議は部下達がやるしか
ありません。
アイデアや意見が活発に
出始めます。
なぜなら現場で困るのは
本人たちだから。
上司は何の為に役職を
与えられているのでしょう?
それは自分の手柄を
もう意識しなくてよくて、
部下に手柄を立てさせる事に
集中して欲しいからです。
もし上司が次の昇進として
自分の手柄が必要なら、
それは自分が現場で
数字をあげる手柄ではなく
会社の運営やマネジメントで
成果をあげることです。
別の言い方をすれば
部下を育てることです。
部下の数字作りの手柄を
自分の出世のための手柄と
同列にしているようでは
役職を放棄して現場で自分も
手柄争いをしているような
ものなのです。
上司はその感覚を
まずは捨てなければなりません。
一方で
部下達は会議で
どのような会議運営を
すればいいのでしょうか?
自分たちが現場で学んでいる
「今」をお互いが隠す事なく
そこからアイデアを出し合うことです。
お互いが助け合う。
アイデアを出し合う。
自分たちの頭で考える。
そういうものが必要なのです。
そう考えると
逆に会議というものは
長くなっても仕方ないと
思います。
会議が長いからムダ
と思うのはいささか
違うと思います。
もし短時間で誰もが
答えを出せるなら
そもそも現場でその場で
対応できているでしょう。
会議が「長い」からムダ
などと言う事自体は
ただの甘えであって
長い短いは関係なく
意味のあるものを
ひねりだす必要があるのです。
「意味のある」とは
自分たちで突破口を
考え抜くという
ことなのです。
それが短時間でできるなら
会議は短くなるでしょう。
自分が未熟なら当然
長くなるでしょう。
自分の未熟さを棚に上げて
会議が長いからムダ
と言っているようでは
とても成長しているとは
言えません。
会議で上司が口を出す
と言う事は
部下が自分たちの未熟さに
気づく前に
言い訳のスキを
与えてしまっている
ということなのです。
だから上司は部下を
助けてはいけないのです。
助けようとして
うまくいかなかった時は
発言した上司の責任に
なってしまうのは
火を見るより明らかです。
上司が会議でどんなに良い
アドバイスをしても
陰口をたたかれたり
文句を言われることがあっても
感謝されることはありません。
そして長い目で見ても
その場で解決策を与えるような
上司の元にいる部下達は
成長はなかなかしないでしょう。

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