メルマガ登録! 仕事や営業の
コツを
毎日4秒で
読めます
Blog
儲ける脳のつくり方

伝えにくい話をお伝えしてみます

こんにちは
岡田です。

一昨日、大学生時代のアルバイト先の
先輩の家にみんなで遊びに行きました。
ご実家のはずなのになぜか一人暮らしで
豪華なマンションに住んでいました。
場所は芦屋市。
日本でも有数な高級住宅街。
学生時代の話に花を咲かせ、
ご家族がいないことをいいことに
気づけば夜は明けようとしていました。
途中からその先輩はなぜか
ニュースキャスターの久米宏さんに
なっていました。
そう。
これは夢の中の話であります。
夢の中で大学時代の先輩の家に
遊びに行き、
途中からなぜか先輩が
久米宏さんに変わったという
夢ではありがちな
無茶苦茶な話です。
そういえば昔からその先輩は
久米宏さんに似ていた気がします。
夢の中で、学生の頃の昔話は
まだまだ盛り上がっていました。
途中、僕はトイレを借りました。
高級なマンションのはずなのに、
急にトイレだけは古い
ボロアパートのような造りになっていて、
さすが夢だけあって何でもアリでした。
そのトイレはあまりに古く、
床が軋んでいてどうも落ち着かず、
心なしか揺れているような
気がするのです。
その落ち着かない気持ちをそらす為に、
向こうの部屋で久米宏さんや友達が
話している声に耳を傾けていました。
盛り上がっていた会話の流れを
突然友人の1人が止めました。
「あれ?揺れてない?」
僕がさっきから落ち着かない
その理由が
トイレが古いからではなく、
揺れている気がしてならなかったから
と確信に変わりました。
これは地震だと。
揺れは意外と長く大きく続きました。
さっきまで古いトイレで、正直
嫌気がさしていましたが
狭い空間の四隅に柱があることで
妙な落ち着きを取り戻し、
急にトイレにいて良かった
と思うようになりました。
そう思ったのもつかの間。
トラックが突っ込んで来たかのような、
大きな音とともにさらに大きな
揺れが襲ってきました。
おいおい、大丈夫か?
それから2、3秒してから
揺れはおさまりました。
今まで体験した揺れの中で
一番大きな揺れであったことは
間違いありません。
場所が場所だけに
おしっこをちびっても
おそらくは大丈夫なのですが
粗相をすることもなく
ドアをあけました。
トイレから出ると
そこはさっきまでの
部屋ではありませんでした。
久米宏さんはじめ
友人は全員無事でしたが
足の踏み場がないくらい
モノが散乱していました。
そして窓の外はまだ暗かったのですが、
いや、暗かったからこそよく見えました。
あちこちで火事が起きてることを。
ドキドキが止まりませんでした。
その時、
目が覚めました。
夢で良かったと一安心しながらも
まだドキドキしていました。
僕は何気なく枕の近くに置いてある
スマホの時計を見ました。
朝の5時46分。
そして時刻の下の日付が
自然と目に入って来ました。
1月17日
そうだ。
今日だった。
阪神大震災の日。
そういえば当時、
よく久米宏さんのニュース番組で
阪神大震災の情報を取っていたのを
思い出しました。
今ほどインターネットが
充実しておらず、
情報を収集するには
まだまだテレビやラジオが
一番手っ取り早かった時代でした。
これと言ってファンという
わけではないのに
なぜ夢に出てきたのか不思議でしたが、
確かに当時はよく見ていました。
さらに言えば
久米宏さんに似ている先輩も
家に泊まりに行くほど
仲が良かったわけではないのに
なぜ突然、夢に出てきたのか。
その先輩の出身は熊本県。
熊本で地震が起こった時に
久々に先輩の名前を思い出し
facebookで検索して
無事でいることを確認したことを
思い出しました。
まあ、無理矢理ですが
地震つながりではあります。
僕は霊感は全くないのですが
こういう経験だけはよくあります。
嘘のような本当の話。
僕は夢から覚めてすぐに黙祷をしました。
人の死は原因が何であっても悲しいです。
生きたくても生きれなかった人は
地震に限らずたくさんいます。
僕は今、生きています。
生かしてもらっている人生。
今を大切にしようと思います。
最後までお読みいただき
ありがとうございました。
p.s.
今日のような話というのは
正直どうでもいいような
「ふわっ」とした話です。

言ってしまえば
地震の夢を見たんだけど
阪神大震災が起きた日時と
全く同じ時間に目が覚め、
不思議なこともあるもんだなぁ、
生きている事に感謝!
というお話。

このような「ふわっ」とした話でさえ
つい最後まで読んでもらえるような
話し方や文章を理論立てて
構成できるようになるセミナーを開催します。
興味がある方はぜひ^^

2つの学び

こんにちは。
岡田です。
このブログを読まれている人は
勉強することが嫌いではない
人が多いと思います。
学ぶことが楽しかったり
喜びだと感じている人が
読んでくれているんじゃないかな
と勝手に思い込んでおります。
そしてもし本当にそうであれば
僕としてはかなり嬉しいです。
さて
タイトルにもあるように
今日は「学び」について
書きたいと思います。
学びには2種類あると思うのです。
一つは事実に対して
その現象や事象の
理由などを突きつめたり
論理的な分析によって
答えにたどり着く過程での
学びです。
それはどういうことなのか?
なぜ、こうなったのか?
どうすれば良かったのか?
なぜ、そうなると思うのか?
どうやったらいいのか?
などなど。
誤解を恐れずに言葉にすれば
科学的とでも言うのでしょうか。
全てではありませんが
この科学的な学びをする時に
邪魔になるのが感情です。
感情が理性を失い
勝手な思い込みで
事実を歪めてしまうことが
多々あります。
次にもう一つの学びとして
目の前にある事象や現象の
理由や根拠などの
論理的な分析は一切せずに
いつもと違った見方をすることで
自分の心のありようや
受け止め方を変えることで
自分の中でその事象や現象を
消化して納得してしまうことです。
これも誤解を恐れずに言えば
哲学的とか宗教的とか
言うと理解してもらいやすい
かもです。
これをビジネスの場面での例え
で説明すると
たとえば納品した商品が
すでに故障していて
クレームが起きた時に
なぜ故障した商品が
届けられてしまったのか?
チェック機能が働かないのは
どこの部分だったのか?
そもそもどこで故障が生じたのか?
などを追究して
二度と同じ過ちをしないように
するのが前者の学びです。
それに対して
クレームという
嫌な事実に対して
受け取り方を変えて
クレームを言ってくれるのは
愛されているからこそであり
それは嫌な事ではなく
むしろ喜ばしいことなんだ!
と何かをきっかけに
気づくことで落ち込まずに
前に進むという学びです。
これはどちらが正しいとか
どちらかでなければ
ならないという話では
もちろんありません。
両方必要だと思います。
無責任な言葉を使わせてもらえば
バランス良く2つの要素を
取り入れた方がいいでしょう。
これがどちらかに偏ると
たとえば前者に偏り過ぎると
原因追究とその対策が
最優先事項になり
謝罪を忘れがちです。
「謝って故障が直るなら謝りますけど。」
大袈裟に言うと
こういう態度が
見え隠れします。
原因を突き止めて
そこを改善しなければ
同じ問題が起きるので
そこの部分だけで言えば
彼らにとって謝罪には
意味がないのです。
一方で後者の学びに偏り過ぎると
どんなに怒られても
「ごめんなさ〜い。
 でも、そっかぁ。
 私たちって愛されてるってことよね。
 ラッキー!うふっ!!」
で終わってしまい、
いつしか呆れられて
愛されなくなります。
どちらもやや大袈裟に書きましたが
実際この手の輩が本当に存在します。
数は少ないですし
信じられないかもしれませんが
本当にいます。
「学びが楽しい!」
「学びは成長だ!」
と感じ、
突き詰めていき
その度合いが過ぎると
こういう人たちが現れます。
嘘でしょ?
どういう神経回路してるんだ?
と疑いたくなりますが
ただ、もしかしたら
僕たちもどこかで
そう思われているかもしれません。
今まで仕事をして来た上で
そういう節があったかもしれない、
自分は両方のバランスを
適度に取り入れている・・・
と思っているのは
実は自分だけであり
意外と同類に思われているかもしれません!
という警鐘を鳴らして
おこうと思います。
人の振り見て我が振り直しましょう。
学ぶのはいいことですが
どちらかに傾倒し過ぎた学びは
知らぬ間に紹介した
事例のような人間に
見られてしまいますので
学び方には注意しましょう。

時代に振り回されないようにするには

こんにちは。
岡田です。
一年の計は元旦にあり
と言いますが
振り返ってみられて
いかがでしょうか?
僕はゆっくりと過ごさせて
いただきました。
このことわざ信じると
僕の未来は幸薄そうです。
というのは半分冗談です。
冗談といいますか
僕が思うに
「一年の計」の「計」は
「計画」の「計」だと思うのですが
それを元旦に立てるのは
「遅くね?」
と思ったりしてしまうのです。
これだけ時代の変化が早い中で
たとえば今日やることを
今朝決めると言ってるような
ものです。
休みの日ならともかく
仕事において
今日やることを
今日決めるって
どうなんでしょうね。
今月やることを
月初に決める。
今年やる事を
元旦に決める。
本来ならそれくらい
ゆっくり人生を
歩みたいものですが
世の中そんなに
甘くなさそうです。
少なくても
明日のことは
今日のうちに、
来月のことは
今月のうちに、
来年のことは
今年のうちに
計画は立てておいた方が
良さそうです。
ただ、それはそれで
どうなんだろう?
という思いもあります。
どっちやねん。
計画通りにいかないどころか
立てた計画そのもの自体が
意味をなさないくらい
世の中が凄い早さで
大きく変わってしまうなんて
もはや日常ですよね。
立てた計画通りに進めたら
時代錯誤も甚だしい・・・
みたいな。
なので、たとえば
社長や部門長の言う事が
コロコロ変わって
立てた計画や
前に言っていたことと
今言ってることが違う
なんてことは
当たり前の事なのです。
計画通りにやってたら
まずいことになる!
とわかっているからです。
ちゃんと計画を立てなければ
仕事として甘く見過ぎだし
立てたら立てたで
意味のないものであったら
立てる時間がムダになるだけだし。
だから時代を読む
未来を予測する
という能力がこれから
さらに重要になってくるのですが
未来を100%当てるなんて
不可能です。
さて、どうしましょうか?
僕は、あくまで僕は
年間計画だとか
3年計画の中長期のものは
ざっくりと方向性だけ
決めておきます。
ただそれだけですと
漠然とし過ぎて
目の前のやることが
わからなくなり
身動きが取れなくなります。
なので直近でやること
1ヶ月単位でやること
3ヶ月単位でやること
半年単位でやること
1年単位でやること
をその同じ期間の「前」に
「決める」ようにしています。
日本語が理解しにくいですよね。
たとえば今日を基準に考えると
明日やる事は
昨日明確にして
来月やることは先月
決めておきます。
来年の動きは
去年のうちに決める。

決めたらその期間かけて
ジワジワと進めます。

長期のものは照準さえ
わかっていれば
あとはその期間かけて
徐々に詰めて行く感じです。
その詰めて行くスピード感は
今日を基準に前後同じ期間を
僕は設定しているということです。
それで時代や世の中の
変化を見ながら
微調整しながら
やっていくと
今まで準備してきたことが
たとえムダになっても
そんなにイライラせずに
方向転換がスムーズにできます。
何事も早目早目に決めて
準備にとりかかり
徐々に進めているので
余裕があるからです。
これが常にいっぱい
いっぱいの状態で
「今全力でやってたことが
 ムダになる!」
とわかった瞬間に
焦ったり、怒ったり
イライラしたり
固執してしまったりと
あまり良い事はありません。
逆に完遂させるのが
早過ぎても
ムダになってしまったら
それはそれで怒りたくなります。
こんなことなら
ギリギリまでやらなきゃ
良かった!と。
なので期間が長ければ長いほど
ざっくりとその目的地だけ
決めておいて
にじり寄りながら
ジワジワと準備をすすめ
もう後に引かないと
決めた時に
一気にやりとげる!
そんな感じが
僕の中ではしっくり
きています。
これが正しいかどうかなんて
誰にもわからないことですし
僕にもわかりません。
ただ僕はこれが
しっくりきている
ということです。

さらに言えば
どんなことでも
ムダになることは
長い目で見たら
殆どないんですけどね。

ただまぁ感情的には
ムダに感じてしまうのが
人間です。
 
ご自分の中でしっくりくる
時間感覚を身につけると
激しく変わる時代の変化に
少なくとも気持ちだけでも
振り回されずに済むと思いますが
いかがでしょうか?

仕事やサービスの質の低下の原因

こんにちは
岡田です。
 
2016年最後のブログ更新です。
さて、
今日の記事は自分に
言い聞かせる意味も含めて
厳し目に書きたいと思います。
 
最近、
世の中で受けるサービスが
目が点になることが多いです。
 
俗に言う

「俺は客だぞ!
 俺は金を払ってるんだから・・・」

的なクレーマーとして
言っているのではなく
無言の悲しみとして

「まじか〜。残念過ぎる。。。」

と心の中でつぶやいてしまう
扱いを受けることが
本当に多いです。
 
日本人ってこんな感じだったっけ?
 
逆に昔ではごく普通の
サービスだったものが
今、そのサービスを受けると
「伝説のサービス」
がごとく語られます。
 
それはそれで
結構なことですが
うがった見方をすれば
あまりにもお客さんへの
扱いがひどいお店が
増えてきたおかげで
普通のサービスが
伝説化してしまうって
手放しで喜べない、と
僕は思ってしまうのです。
 
なぜこんな時代になって
しまったのでしょうか?
 
僕は前々から思うのですが
どうも「自分らしさ」とか
「あなたはあなたのままでいい」
というフレーズを
大きく誤解している人が
多いと感じます。
 
そしてその誤解が
誤解されたまま
メジャーな考え方として
ある種の勘違いした人たちによって
今の世の中を作っている気がします。
 
またハラスメント問題が
大きくとりあげられる
時代の弊害が
このような自体を
招いていると
思わざるを得ません。
 
何が言いたいのか。
 
それは
 
最近、本気で誰も叱ってくれない
世の中になってしまった
 
ということです。
 
特に上司や先輩。
 
愛情を持って叱っても
ハラスメントとして
訴えられたらそれで終わりです。
 
叱ると返り討ちに会う。
 
叱るどころか
「指摘」すらも
怖くてできないのが
本音ではないでしょうか?
 
その仕事や作業をしている
部下や後輩は
「それでいい」
と悪意なく思っているのでしょう。
 
本人はそれでいいと
思っているのですから
改善のしようがありません。
 
自分の不手際を
自分で気づける人間なら
お客さんのため息や
肩を落としたことを
見逃しません。
その瞬間に
自分のしたことを省みます。
 
そこから自分の不手際や
改善の余地を探ることで
自分の成長を自ら
課せる人となるでしょう。
 
そういう人にはまさに
叱る必要などないでしょう。
 
ところが
 
その訓練を受けずに
 
「いいんだよ。いいんだよ。
 そのままでいいんだよ。」
「あなたはあなたのままでいい。」
 
という周囲の甘い言葉を
そのまま解釈して
 
「自分は一切変化する必要なし!」
 
と思い込み
自分と違う上司の価値観を
攻撃の対象としてみなし
パワハラとして法律に委ねる。
お客さんから怒られても
質の悪いクレーマーとして
相手にもしない。
 
そんな人たちが
自分の成長という変化を自ら課す
その訓練はいつどこで
体験できるのでしょう?
 
経験もしたことがない、
経験するつもりもなければ
気付きさえもしない
 
そんな人がいつどこで
どう成長するきっかけを
見つけられるのでしょう?
 
また厄介なことに法律が
彼ら彼女らを過度に擁護する
時代になってしまっています。
 
法律がそうであるなら
叱る義務も指摘する義務も
つまり教育の義務も
放棄したくなるのも
無理はありません。
 
それでも上司たる人間は
その法律を遵守し
教育を放棄しては
いけないのです。
 
しかし、
 
しかしですよ。
 
そういう上司や先輩は
強くなければ
とてもじゃないですが
今の世の中は
やっていけない
環境や文化になってしまって
いるのです。
 
ちなみにここで言う
「強さ」とは
優しさや余裕を持ち合わせて
他人のために時間や苦労を
惜しまない人間です。
 
ではそういう強さを
持ち合わせる為には
どうしたらいいのでしょうか?
 
どうしたらそういう強くて優しい
愛情のある上司が
育つのでしょうか?
 
今、権利だけを主張して
自分のいい加減な仕事は
棚に上げて
ちょっとでも
自分に気に入らないことがあれば
「ハラスメント」
として訴え
法律に守ってもらい
お客さんをお客さんとも思わず
感謝の念を教わる事もなく
「自分は一切変化する必要なし!」
と思っている、
そんな人の未来に
何があるのでしょう?
 
その人が時間の経過とともに
「強い」上司になるとは
到底思えないのです。
 
自分以外無関心。
 
そんな上司はもちろん上司ではなく
その下についた部下は
本当に仕事としての
幸せを見つける事が
できるのでしょうか?
 
部下のうちはそれで
いいかもしれません。
(僕は良いとは思いませんが)
 
しかし未来において
自分に後輩ができ、部下ができ
チームで大きな仕事をする時に
それに耐えうる人物になる訓練を
いつするのでしょう?
 
その訓練は
自分が若いうちに
するしかないのです。
 
では、
「あなたはあなたのままでいい。」
「そのままでいいんだよ。」
という思考は間違いなのでしょうか?
 
僕はそんなことは
ないと思っています。
 
そのままの解釈だと
誤解してしまう人がいる
と言いたいだけです。
 
たとえば
 
上司が部下の行動に対して
厳しく叱責したとしましょう。
 
部下はもちろんそれの何が
悪かったのか気づいていません。
 
上司の価値観を
部下に無理矢理押し付けて
それを行動として強いたら、
僕はそれはパワハラだと思います。
 
しかし、あくまで上司も人間です。
価値観を示すことは
何も悪いことではありません。
 
上司の立場として
職場の先輩として
人生の先輩として

「俺は過去の経験から

 こうやった方がいいと思う、

 そう教えたのに、

 なぜやらなかったの?」

と指摘したり、時に叱ることの
何がいけないのでしょう?
 
叱られるというのは
価値観の違いを
見つけることなのです。
 
部下は良かれと思って
こうやった、
でも上司はその価値観が
あり得ないと思った、
 
その違いが見つかった
ということに過ぎません。
 
つまり
 
ここからが対話の始まりなのです。
 
どっちの価値観が正しいとか
それを押し付けるとかでは
ないのです。
 
対話によって
自分のしたことが
良かったのか悪かったのか?
上司の価値観が果たして
本当に最善なのだろうか?
いろんなことを
気づけるチャンスでもあり
始まりなのです。
 
たとえ過去にその上司が
うまくいった成功事例を
示してもらったとしても
自分のやり方をどうしても試したい、
そうすることで
もっとお客さんが
喜んでくれるかもしれない、
それをしたいんだ!
 
という強い意志があれば
それこそが
 
「あなたはあなたのままでいい」
「そのままでいいんだよ」
 
と言えると思うのです。
 
対話をもってして
上司という違う価値観の
壁を乗り越えて
そこでようやく
世間の荒波に
向かって行けるのです。
 
言わば上司の反対意見は
世間で通用するかどうかの
フィルターの役目なのです。
 
その愛情ある壁や坂道を
最初から平坦なものにするために
 
対話を始めることなく
自分がラクできるようにやる、
叱責しようものなら
パワハラとして訴える
 
それは上司が部下に
不条理な何かを強要するのと
やっていることは
大して変わりません。
 
まずは対話を始めることが
大切なのに。
 
「そのままでいいんだよ」
 
という言葉は音調としては
とても優しい音調ですが
実は前提としてそこには
価値観の違う人との対話があり、
それを乗り越えて
自分で行動としての責任をとれる
そんな一面も内包しているのです。
 
それを
「変化しなくていい」
と勘違いしていると
どこまでも甘い世の中、
舐めきった人生を
歩むことになると思います。
 
成長をしたいのなら
叱ってもらった方が
実はラクなのです。
 
こういうことを言うと
 
「え?変化しなきゃいけないの?」
 
と言い出す人がいます。
そういう考えの人がいたら
逆に聞きたいです。
 
「あなたは昨日のあなたと
 まったく同じなのか?」
 
と。
 
「変化しなきゃいけないの?」
ではなくて
 
「変化してしまうのが人間」
なのです。
 
だったら
「変化しなきゃいけないの?」
ではなくて
変化してしまうのであれば
「どう変化したら自分にとって
 良い人生になるのか?」
を問うた方がよくないですか?
 
それを踏まえた上で
自分のやりたいように
やればいいと思うのです。
 
そこに上司の価値観に
合わせる必要などどこにも
ありません。
 
あなたはあなたのままでいい。
 
そこには責任が発生し
その責任ある行動と
試行錯誤の末に
やりきった仕事や
提供するサービスには
強い意志や魂が
必ず宿ります。
 
そのサービスを受けたお客さんが
「残念に思う」
事などそうそうないと思います。
そう思うのは
僕だけでしょうか?

やることやっただけでは評価されない

こんにちは
岡田です。

何の調査だったか
どこの調査だったか
忘れてしまいましたが
「営業」という職種は
学生がなりたくない職種
ナンバーワンだそうです。

まぁ学生じゃなくても
なりたくない職種なんでしょう。
それは僕の周りを見ていても
なんとなくわかります。

「とにかく営業だけはやりたくないっ!」

よく耳にするフレーズです。
敵意すら感じる
その強い言い方に


「何もそこまで嫌わなくても・・・」


と思いながら
若干残念な気持ちに
なることがあります。


なぜ残念なのか?


それはそう言ってる人の
意に反して少なからず
営業という活動を
するしかないからです。


そもそも営業とは何か。


営利を目的とした業務です。
営利業務、つまり営業。


資本主義の社会において
会社というものは
すべからく営利を目的としています。


だからたとえばお店で言ったら
「営業時間が朝10時から夜8時まで」
というお店の場合は


朝10時から夜8時までは
このお店では
営利を目的とした業務を
行っていますよ?
という時間帯のことなのです。


そのお店や会社で
働くということは
営利を目的とした業務の
一部を担うことです。


それがお店や会社で
働くということなのです。


つまりどんな仕事であれ
資本主義社会において
会社で働くということは
営業活動に参加する
ということなのです。


営業マンがお客さんのところへ
行くのももちろん
営業活動の一部ですし


事務員さんが電話対応するのも
プログラマーがソフトを作るのも
アルバイトが飲食店で皿を洗うのも


営業活動の一部なのです。


その「営業活動」というものを
細分化していくと
役割という概念が発生します。


たとえば
事務という役割
プログラマーという役割
皿洗いという役割


その役割の方が思考として
優先されると悲劇が生まれます。


役割を優先する人は
自分の仕事は
●●という役割だから
「営利を目的とした業務」は
しなくていいと勘違いし始めます。


いやいや、
「営利を目的とした業務」
の中にそれぞれの役割があるんです。


目的はそっちのけで、
目の前の役割だけに専念する。


それがどういう状態なのか
と言えば


目的が同じではない人が
ただ同じ場所にいるだけ
という状態なのです。


なので


「えーーーっ!私、
 営業じゃないし関係ないじゃん!」


などと言う人がいたら
その人は


「資本主義社会においての会社で
 働くことができません。」


と言っているようなものです。


資本主義社会において
会社というのは基本的に
利益を生み出してのみ
存続が許されます。


利益を出す事を目的としない人が
自分の役割だけを主張して
営利を意識しないまま
その会社に居続けたら、


ましてや、
そういう人ばかりになったら
その組織は崩壊に向かいます。


利益を生み出す目的から
どんどん離れるので
資本主義社会においては
存続が許されなくなるからです。


役割においての作業をこなすことが
どんなに他人よりできたとしても
その作業が営利を目的とした業務
でなければ優秀ではないのです。


役割を優先し
目的を失った人が
いくら作業をこなしても
評価されなかったり
出世できないのは
そのためです。


「私こんなにやってるのに!」

と本人がいくら思っていても
そこに気づかない限りは
恐らくいつまで経っても
評価はされないでしょう。
出世もできないでしょう。
そして居づらくなるでしょう。
転職しても同じことです。
だから気づかない限りは
転職を繰り返すしかありません。


営業を意識した上で
役割を全うできる人が
資本主義社会の会社においては
優秀であり、評価されやすいのです。


組織を崩壊させるのも
会社を大きくさせることができるのも
営業という活動に参加できる人が
どれだけいるか?
に関わってくると思います。


Blog Menu ブログメニュー

このページのトップへ